昭和53年01月31日 朝の御理解



 御理解 第9節
 「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。」

 先日御本部で議員の先生方の会合がありました、中で異質の信心と言う事が問題になったそうです。異質と異なったああ変わった、いわゆる金光教の信心の中に、いわゆる金光的でない信心が教会があるという問題です。異質の信心その異質の信心の中に、合楽が入っておったと言う事です。合楽が金光教的ではないとこう言う。それで秋永先生が今度、先日の松影会で特別秋永先生が呼ばれて、ある先生からそう言う事を言われたと、こう言う事なんです。
 けれども本質的な本当な金光教の信心がおかげが受けられる異質なのがおかげが受けられるなら、異質なほうがほんなこっじゃあないですかっち、言いましたという話しでした。そうですよね異質だと。けども異質な所にはどんどん助かる。もう異質といわれておる教会ほど、その御ひれいがたっておるわけです。もうそしてこれが本当だと、これが金光教の本筋をいくんだと言った様な、いうなら理屈ばったことを言っておる教会ほど人が助かることには非常に縁が遠い教会が多いのです。
 してみるとこれは、異質即それは本質であってそれに変えていかなければいけんのじゃあないかというわけですね。私はあの思います。教祖様は宗旨嫌いをせんとこう言う。だから、それがどんなに、なら仏教的であろうがキリスト教的であろうが金光大神の御名を唱えて、そこに人が助かるというのならそれでいいと。金光教の信者はそんなに大きいって。天理教であって、的なあり方があって良し。
 創価学会的なあり方があって良し。そこには教祖生神金光大神の御名が唱えられて、その芯になるところは天地書附である。人様々なやはり性質、性格というものを持っておりますからね、昨日もどうも、その合楽の教会に最近ひんぴんとして、その金が無くなる。それが大体、その見当が大体ついてきよる。だから何とか手のうち用が無いだろうかということでした。だから合楽教会に泥棒もおってよかよと私しは申しました。金光様の御信者の中には、なら泥棒もおっていいって。
 金光様唱えてから泥棒しよるとなら、それでいいじゃあないかね。まあとにかく天地の心とは黙って与えて黙って治めると言われるんだから、まあそこの所は、まあしっかりみながお願いをして、そしておかげを頂いて行く様に祈るより他になかろうと。他に手立ては無い。他に手立ては無いことはない。お前この頃えらい金使いが荒いが、どういうふうか。どっからその金を持ってきよるとか。もうだいいち修行生が給料もらったらすぐ取られるみんな。おかしな話ですね。教会の中に泥棒飼うているような。
 しかしそのくらいなね、例えば気持ちがなかなければならないと。教祖金光大神は、宗旨嫌いをせんと。それこそ淫祇邪教といわれるような、なら宗教も事実あるけれどもね、それでいて、なら金光大神の御名を唱えてそこで人が助かっておるなら、そう言う宗教に、そういう信心に帰依する人があるならそれでいいじゃないか。教祖金光大神様は宗旨嫌いをせんと。それこそ、世界はわが心にありとおっしゃるね。合楽教会の働きの隅々まで、それは大坪総一郎の心の中にあるんだ。
 異質とか本質とかという問題は別として、問題はそこに金光大神のお取次ぎの働きが生き生きとして、起こってくるおかげを受けなきゃならない。そこで改めて思うのですけれども、合楽の信心のまあ手続きというかね。小倉、福岡、久留米、そして三井教会、合楽と。その先生方がたどられた信心は、おんなじ桂松平先生の信心の中にあってそれぞれ違うと言う事。甘木、福岡、久留米、三井教会。やはりそこの先生の信心の気質というか、いわば、そこふう流というものが段々ある
 あらなければ嘘だと。桂流の信心の中にもそういう色々なそれがある。それは私はその、福岡の初代が受けられたという、馬鹿と阿呆で道を開けと。福岡に布教と決まったときに、自分のような無学な者がそれこそ福岡の、まあ書生気質という、それが多分にあるといわれる。いうなら学者、学生が多いという福岡で布教致しますのに、私のような無学な者が出まして、ええ、大丈夫でしょうかという意味のお願いをなさった時に、四神様が教えられたのが馬鹿と阿呆で行けと仰った。
 馬鹿と阿呆で道を開けとおっしゃった。だから福岡にはその馬鹿と阿呆で道を開く、その、精神がある限り、私しは福岡が御ひれいが輝くと思うですね。久留米はお広前の金光様の御奉仕を心習しておられる時に、だれもこうお参りが無い、石橋先生と御結界の四神様がお座りになっておられる。そん時まあある時手招きをされる、四神様が。石橋さんとすぐそこへ、御結界にまいられますと、石橋さん信心辛抱さえしておれば物事整わん事はないぞと仰った。もうこれが石橋先生の掛け守りと言われる様に。
 もう口を開けば久留米では信心辛抱がいわれております。だからこの信心辛抱、ここまでは辛抱するけれどもこれからが辛抱せんというたら、もう信心辛抱にはならんです。信心辛抱ですから。馬鹿と阿呆でもそうです。馬鹿と阿呆になりきらなければ。私はこの2つの御教えを思うてから、今日の御理解を思います時に、もうこの2つの御教えが教祖様が仰る、いうなら宗旨嫌いをせんとか、世界はわが心にありという程しの、信心というものはこの2つが行じられたらその信心が分ると私は今日は思います。
 いよいよ馬鹿と阿呆。いうなら大きな信心といやぁ、これほど大きな信心はなかろうと思う。どう言う事があっても気にしない。馬鹿と阿呆で行く。あぁ馬鹿になっとらんならん、アホになっとらんならん、こげなきついことないというたらもう、馬鹿と阿呆じゃないです。だから私は段々思わせて頂くにそういう先覚の先生方がそう言う素晴らしい信心を残しておられて、その信心に本気で取り組ませて頂いて、30年間いうなら本気であぁこここそ馬鹿と阿呆にならんならん。
 こここそ信心辛抱しぬかんならんと思うて、そのことに取り組んで信心を、まあ合楽の信心はそれだというていいです。その信心にこうなりきらせて頂いておったら、天地の心とは黙って与えて黙って治めると言う事だと言う様な、天地の心を心とする信心が合楽には生まれてきたと。いわゆる成り行きを尊ばせてもろうたり、全ての事に御の字をつけて頂いたり。辛抱しきれない様な事があっても、そこを泣く泣くでも辛抱しぬかせて頂いて、もうどうにもこれだけはもう神様辛抱できません。
 こりゃあ椛目時代でした。だからそのことを一生懸命神様におすがりさせて頂きよったら、あの釣る忍ぶを御心眼に頂いた。忍ぶという夏に芽が出る、あのしだの類です。丸くこう釣り下げた、庭先なんかにようしてあります。釣り忍ぶです。それこそ吊り下げられておるほどしに苦しいことなんだけれども、さあここは忍べと神様が。不思議なことですね。神様が忍べとおっしゃたら忍ばれるんです。自分の我力で忍ぼうと思っても、もうこれだけは忍べません。
 と言う様な事でもです不思議。神様が忍べと釣り下げられておるような修行も神が見ておる。お前が苦しいことも神が知っておる。さあここを忍ぶのが信心辛抱ぞと教えられたら不思議に辛抱が出来た。もう一時が万事にあたくしの信心はそれであった。信心辛抱いわゆる馬鹿と阿呆で道を開く。だから信心とは、もうそれに徹すること。そして分からせて頂く事は、金光教の信心の中にはああいう生き方は駄目、こういう生き方ではいけないということは無い。
 金光大神の御名を唱えて、そしてそこに天地書附和賀心、天地書附にある和賀心を目指していっておる生き方であるならばです。信心をしておるならばです、それで良いんだと。赤があって良し青があって良し。だから金光教は本当にもっともっと金光教的と言う様な事を使うが、金光教的なんてものはあるはずが無い。キリスト教的であってもよし、仏教的であってもよし、そこらあたりにあるお稲荷さん的なものであってすらいいのです。金光大神の御名を唱えて、そこで人が助かっておる。
だから、それでいつまでも良いというのではない。そこからより本当なことというのはありましょうから、そのより本当なことを目指していくと言う事。だから異質の信心などと言う様な、ああ表現をしとおる間は金光教は益々こまくなるでしょう。金光教がいよいよ大きくなるためには、金光教的とかあれは異質なとか言ってる間は、ならある人達がこれが本当だ、これが本質の金光教の本質的なものだと、いっておる人の所では人が助からなくて、段々こうまくなっていっとるとすんならもう、それこそ異質だと。
 それこそおかしい。と一つ悟る時代が金光教に大きく広がってこなきゃあ、大きな金光教団的悟りが開けなければならないなと言う事を今日、私は思う。しかもその教団的な働きの中に何が欠けておるかというと、いうならば馬鹿と阿呆で道を開くと言った様な、金光教は馬鹿と阿呆で道を開くんだ。金光教の信心は、もう信心辛抱に懸けては金光教は素晴らしいと、辛抱力を作っていくと言う様な信心。
そう言う信心から、和賀心に世界が和賀心にありと言う様な事になってくるんじゃあないでしょうか。あの教会はどうもキリスト教仏教的。最近そんなのがありますよ。いっちょん御ひれいがたちよらんそしてから。朝御祈念の時には御祈念はせんげな。オルガン弾いてから歌うわけ。金光教の歌をね、すごく気分がええ。このごろそこの先生と信者と参って来て、あたしの方ではこういう、いうなら新しい金光教の行き方を始めてあるね。成程あれは神人の栄光ですね。
 素晴らしいですよ、あの歌の文句は。それをみんなでオルガンを弾いてから、まるっきりキリスト教の教会のごとある。しかも椅子席にしてあるから、もうまるっきりキリスト教と同じこと。だから、御ひれいがたたんと、そういうことであってもそれはなんともいわないけれどもね。御ひれいが立ちだすとあれは異質だと言う様なちいさい信心が、いま、金光教をいよいよ小さくしていっておると私は思うです。
今日のこの御理解を一つみんなに聞かせたいと思う。金光教を大きくせんなん大きくせんなんちゅいうならば、どういうキリスト教的であろうが仏教的であろうがそこに○○的であろうがですね、それを金光教にほうがいして問題は教祖生神金光大神の御名を唱えて、そこから和賀心を目指していっておる。それで良いと言う事は無い。いよいよ本当なものから本当なものへとする教導こそしなければならないけれども、それが間違っておるということはない。金光教の信者の中には泥棒もおって良か。
 それが改まったら人よりか一段と素晴らしい改まりが出来ることだろう。それこそ自分のような悪人は無い。自分のような親不孝もんは無い、と言った様なものが分って来るときに誰よりもあり難いという度合いが強くなってくるもんですね。いつまでも泥棒しとるということがいいことはない。けどもこれは仕方が無い。取るごとあるならね。そりゃですね。取ろうと思った人は手がガタガタ震えだすそうですから。それは例えばならここで研修なら研修をするでしょう毎日。
 そん時あんた大概な人はおらんですから。部屋さん行っとけばね、どげなことでん出来る。一時間ありゃあ。ああだからね、それを私しは良いというわけじゃあないけれども、そういうのが、なら改まってそして金光様へすみませんと、いうていく時には、もうふつうの善人の人よりも悪人のほうがいうなら、悪人転機かなんかっていう言葉がありますよね。いうなら屑の子の自覚に早く誰よりも立つことが出来るんです。
金光教の信心をいよいよ、広く大きくするためにはね、そういう小さい事を言よって大きくなる筈はない。人がそこに助かっておるならもう、それこそどこにその助かりのいうならば、ああ助かっておる人が集まってくるものがあるかと言う事を、研究こそしなきゃあならん。尊しとこそしなければならんのに、それをそういうのを金光教的ではない。異質な信心だから、それをなんとかしなければと言った様な話し合が、本部なら本部で中央であっておる限り、金光教は何時まで経っても大きくならないでしょう。
 本気で馬鹿と阿呆になる。そこにはいつも言うように、いうなら蚊取り線香になるということだけれども、火は付いておらなければだめと言う事。いうなら信心辛抱が出来んごたるとこでも出来るほどしの、いうなら熱情というものが中になからなければだめだと。それを30年間続けてこさせて頂いておったらね、例えばなら悪口を言われてもです、おかしいような心が起こって来るまでに私しの心は育っておる。
 同時にね悲しゅうなる。そういう人の悪口を言っておるような人達が、これは天地の親神様の心を心としておる印が私しの心の中に感じられる。天地の心を心とする、そう言う信心をしておるから心が悲しゅうなる。それは悪口を言うてから悲しいのじゃあない。言う事の人達の事を哀れに思うから悲しゅうなる。そういう素晴らしい心がね育ってくる。本当にそういう悪人も、いうなら、泥棒でもあたしの心の中にあるんんだと。世界はわが心にあると言う事はそう言う様な事だと思う。
 今日は私は宗旨嫌いをせんと言う所にです、金光教の信心はとにかく大きい。どういう宗教宗があるですかね。仏教宗がある。私し共の信心には、やっぱりなんというても子供の時からのあれがありますからね。じいの感化を受けておりますから、仏教的な雰囲気があるですものね。私しは今でも思うんです。あの鐘をチーンとたたくのが、あれがとても好きなんです。もし許されるんなら、いつもここに数珠を持って御結界座っておりながら数珠を、こうつまぐりたいような気持ちが非情に強いです。
 これは本当にそうです。ですから合楽はいうならば、仏教的なそれが強い。あっていいのです。宗旨嫌いをだから全然せんで良かわけです。一緒に飛び出て歌ば歌いよったちゃあ、ならそれでいけないことじゃない。問題は悲しいことにそこに助からんならそりゃあいかん。問題は人が助からなきゃあならない。いよいよ馬鹿と阿呆で道を開けと。いよいよ信心辛抱さえしとれば物事整わんことはないという信心辛抱を貫かせてもろうて、いよいよ偉大なる馬鹿と阿呆にならせて頂くところにはね、宗旨嫌いなんかっていう気持ちはさらさら起こって来ないと思うですね。
   どうぞ。